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りゅーとぴあ能楽堂シェイクスピアシリーズ「ハムレット」 2010ツアーの模様を追いかけます!


by RNS_HAMLET2010
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ルーマニアの劇評(翻訳)

ルーマニアで上映された私たちの「ハムレット」(07版)の
劇評の翻訳をいただきました。

長くなりますが、
紹介させていただきます!

*今年のルーマニアのフェスティバルは「『ハムレット』競演」というテーマを掲げ、
なんと、「ハムレット」だけを集めたフェスティバルとして開催されたのですが、
その中でも、映像出演になってしまったのにも関わらず、
私たちの「ハムレット」が独特の存在を示すことができたように思えます。


①ユリア・ダヴィッド署名:
「舞台」誌2010年6/7月号No.9、『さまざまなハムレット』
「・・・・・
<ブルックの「ハムレット」と栗田の「ハムレット」>
同じシェークスピアの作品を扱いながらもこれほど対極にある二つのハムレットが観客に提供された。この両作品とも、溢れるばかりのエネルギーを持つことで良く知られたテキストの力によって、登場人物はさまざまなレベルに築き上げられている。また言葉のエネルギーは、役者の存在感の可能性を大いに際立たせている。舞台の仕込まれているスペースは異なるものの、一方は、ヨーロッパのブッフ・デュ・ノールであり、ピーター・ブルックの演出である。他方は、日本のりゅーとぴあ能楽堂シリーズで、栗田芳宏の演出になるものである。ヨーロッパとアジアであるが、これらを結び付ける共通の要素は、エリザベス演劇の現代性‐何もない舞台ということである。2002年に撮影された「ハムレットの悲劇」(すばらしい国際的配役となっている)で、ブルックは、意味と解釈の素材を純粋化し、まず何よりも物語を単純化することを提唱し、世界の誰が観ても分かり易くすることに成功している。結果として、きわめてシンプルであるからこそ、複雑に、きわめて脆弱だからこそ、復讐の異常な思いにとりつかれるハムレットが生まれている。これにより繊細なニュアンス、言葉ではない思想や緊張が齎されており、これらすべてのものが舞台で一つのものとなって現れているのである。エイドリアン・レスター(アフロ・アメリカンの初のハムレット役)が、ブルックのアイディアを体現する。(一部省略)
 きわめて興味深いのは、シェークスピアを能の伝統において舞台化することで名を知られる栗田芳宏の強力なハムレットである(以前にクライオバで「冬物語」が紹介されている)。ハムレットは、禅の本質を体現している‐舞台の初めから終わりまで、空の舞台で、動かずに座っているのである。そして力強く台詞を発するのである。本来、登場しない場面でも座り続けているのである。役者・河内大和は動かない。集中している。同じポジションで座り続ける。その他の登場人物は、彼の周りを動き回る。あたかも彼の知力によって動かされているがごとくに反応して動くのである。私は、日本のハムレットがロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで生涯訓練してきている役者の発声のように力強く台詞を発することが出来るとは考えもしなかった。そしてアクションを完全に断念することで、恐らく、役者の知的集中によってシェイクスピアのテキストが、エネルギーの洪水のごとくになり、さらに視覚的なアクションよりもより強力なバイオレンスを再現するのである。これは日本人が、観客のイマジネーションの方が、舞台上で展開するいかなるアクションよりもより強力であるという事実に賭けたからである。
・・・・・」

②ルドミラ・パトランジョグル署名:
「プテーレ」紙2010年5月3日付『生肉を切る、ハムレットの結果』
「・・・
フェスティバルには、この数十年間に制作され、現代語で革新的に演じられ評判となった舞台が招待された。西欧と東洋のすぐれた舞台を観ることができるようになっていた。
日本の栗田芳宏は、ハムレットをりゅーとぴあ能楽堂で演じられた能スタイルで舞台化してみせた。一方、ピーター・ブルックは、白人、黒人、ムラートからなる国際的な配役で舞台化してみせている。
・・・」



③アリス・ジョルジェスク署名:
「古きジレンマ」誌2010年5月13~19日号、『ハムレット・フェスティバル』             
「・・・(シェークスピア学者らによるセミナーなどの成果に触れた後)
ハムレットという人物は―また彼と同時に、世界、彼の世界そしてわれわれの世界―舞台に直接携わっている人々によって更に分析されることとなる。私は、二つの舞台についてのみ簡単に触れることとする。一つは、ベルリン・シャウビューネのトーマス・オスターマイヤーの舞台と新潟能楽堂のりゅーとぴあの日本人の舞台である。第一の舞台では、現代的で、芝居がかった、暴力的で、下品なハムレット。もう一方は、不朽の、聖人のような、清潔なハムレットである。同じ人物の二つの表現は、生きることと死ぬこと、そしてその関係、自分の精神つまり自分の運命を知ろうとする生きた一人の人間の二つの切り口なのである。この二つの舞台は、文学的な文書を超えたところに進み、それぞれのやり方で、私たちに語りかけようとしているのである。まだまだ語りきれないのであるが、いずれにしろこのフェスティバルが毎年開催されることを望む。」

④ミレラ・ネデルク・パトレアヌ署名:
「カルチャー・オブザーバー」誌2010年5月13~19日号『毎晩ハムレットあるいはクライオバ・フェスティバルのクロニクル』                   
「・・・
日本劇団のりゅーとぴあは、まったくオリジナルなハムレットを上演するはずであったが、火山灰の雲のために舞台を撮影したDVDで我慢せざるを得なくなってしまった。能の伝統から創られたハムレットは、生の舞台のインパクトを大幅に縮小されてしまったにも拘わらず、視覚的ショックは強烈であった。仏陀の銅像のように動かないハムレット、視線と声の抑揚は強烈な表現力を持っている。(この後に、リチャード・シャクナー教授が指導する上海演劇アカデミーの舞台、イ・ユンテクの舞台が論評されている)・・・」

⑤クリスティーナ・ルシエスキー署名:
「カルチャー」誌2010年5月20日付『シェイクスピアを選ぶ』
「・・・
クライオバの劇場がもっとも華々しく活躍していた頃の支配人であり、そして今は「シェイクスピア」フェスティバルのディレクターである彼(訳者注:ボロギナ氏)は、ヨーロッパと世界でもっとも代表的な舞台を誠実な観客たちに提供しているという点で、恐らくルーマニアでもっとも価値のあるフェスティバルを成功させている人間である。数年前のりゅーとぴあ能楽堂シリーズの「冬物語」の思い出は消し去ることはできない。決して忘れられない数少ない舞台の一つとして残り続けるであろう。残念ながら今年は、火山灰の影響で参加を断念せざるを得なかったのである。「シェイクスピア」フェスティバルは、近年、クライオバとブカレストで開催され、ルーマニアに現時点でヨーロッパの演劇界のトップたちが招聘されて来た。今回も、コルスノヴァス(Korsunovas:リトアニア)、ネクロシウス(Nekrosius:リトアニア)、オスターマイヤー(Ostermeier:ドイツ)などなどが参加した。・・・」
by rns_hamlet2010 | 2010-10-26 17:27